2008年10月07日
札幌デリヘル嬢 竹鼻魔女狩りの展開
考えてみたらひどい話ですよね…。
魔女狩りの展開と衰退
12世紀に始まった異端審問が、それまで民事裁判で裁かれていた魔術を扱うようになったのは15世紀に入ってからであるが、それはワルドー派が多かったスイスやフランスのアルプスに近い地方で始められた。ノーマン・コーンによれば記録に残るものでは1428年にスイス、ヴァレー州の異端審問所が魔女の件を扱ったものが最古であるという。もともとこの地方の異端審問所はワルドー派の追及を主に行っていたため、やがて異端の集会のイメージが魔女の集会のイメージへと変容していくことになる。悪魔を崇拝する、あるいは聖なる物品を侮辱する、子供をとらえて食べるといった魔女の集会の持つイメージはかつて異端の集会で行われていたとされたものそのままであった(魔女は本来群れるものとされていたのであり、森に一人で住む魔女というイメージはグリム童話などに負うところが大きい)。
さらに魔女の概念が当時のヨーロッパを覆っていた反ユダヤ主義と結びつくようになると、「子供を捕まえて食べるかぎ鼻の人物」という魔女像がつくられていった。魔女の集会がユダヤ人にとって安息日を意味する「サバト」という名称で呼ばれるようになるのも反ユダヤ主義の産物である。このように人々の間に共通の魔女のイメージが完成したのが15世紀のことであった。
15世紀に入ると、魔女と魔術に関する書物が一種のブームとなる。たとえばニコラス・ジャキエ(Nicolas Jacquier)の『異端の魔女に与える鞭』(Flagellum Haereticorum Fascinariorum, 1450年)やウルリヒ・モリトール(Ulrich Molitor)の『子供の血を飲む魔女』(De lamiis et phitonicis mulieribus, 1489年)などがあり、特に有名なものとしてドミニコ会の異端審問官であったハインリヒ・クラマー(Heinrich Kramer)とヤーコプ・シュプレンガー(Jacob Sprenger)によって書かれた『魔女に与える鉄槌』(Malleus Maleficarum, 1487年)がある。しかし、そういった書物のほとんどは俗説や噂をもとに書かれ、いたずらに魔女の脅威をあおるような低俗で扇情的なものであった。今日に伝わる魔女の嫌疑をかけられた人々に対する残虐行為の数々も、多くはこのような風説に基づくものであった。
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魔女狩りに対しては当時から多くの反対意見が存在していたが、その中でとくに大きな影響を与えたのがヨハンネス・ヴィエルスであった。1563年に『悪霊の幻惑および呪法と蠱毒について』(De Praestigiis Daemonum et Incantationibus ac Venificiis)を発表し、『魔女に与える鉄槌』を「まったく根拠も信仰もない」と非難している。その一方で、「やっかいな悪魔に誘惑された高位高官の人びとに対する真からの同情心」が執筆の動機であるとして、魔女狩りは悪魔の誘惑によるものであり責任は悪魔にあるとの説を展開し、これまで魔女裁判を行った者への配慮も怠らなかった。同書は大きな反響をよび、多くの地方において魔女裁判が寛大かつ慎重に行われるようになり、魔女だとされたものが同書の論理で弁明をすることもあった。第三版の刊行時にヴィエルスは皇帝フェルディナント1世に「不当な魔女裁判の助長を差し押さえる特権」を請願し認められている。しかしながら、しだいに魔女狩りを行う地方が増加していき、ヴィエルスが『悪霊の幻惑および魔力と毒舌について』を執筆した地においても1581年には水検査と拷問が復活している。(参考文献:クルト・バッシュビッツ著『魔女と魔女裁判 集団妄想の歴史』第3部「妄想と戦うヴィールス博士」)
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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